2013年06月03日
「15-0(フィフティーン・ラブ)」
先日の錦織選手の相手のバックハンドはすごかった。
あのショットを見たら、ドロップショットなんか予測できない。
でもそのドロップショットを拾いにいく際、右手一本でグリップチェンジしてラケット面を上にしていた錦織選手もうまい。
さて雨なら麻雀ではなく、晴れていたが本を読んだ。
スクールの待ち時間があったので近くの図書館で1時間強ほど。
図書館て静かだ。(当たり前か)
読んだのはスポーツジャーナリスト 神(コウ)仁司 著「15-0(フィフティーン・ラブ)」
錦織圭選手の2008年までの歩みを紹介している本である。
”コウ”とは珍しい読み方だね。近くに神と言う地名があるが”カムラ”と呼ぶ。
本のなかでも錦織をニシコリと読むようにしたのは祖父だと書いてある。
確か大津京遺跡の辺はニシコオリと呼ぶはずだが、錦織部という職業の人が各地に散らばっていったのはわかるが、祖父の代って大正か昭和初期のはずなのに、そこで戸籍の読み方を決められたというわけ?
話がそれた。
書評はうまく書けないが彼の成長は人との出会いがよかったと書いてある。
父君はテニス経験があり、姉と一緒にテニスラケット与えテニスを5歳で始めることとなる。
最初は好きで行くこともなかったようだが姉の存在が大きかったと。
姉が続けているので何とか姉に勝とうとしてはまってしまったようだ。
負けず嫌いだったようだ。
今でもそうなんだろうが読みがうまくて配球、展開力というのだろうか勝ち方を知っていたそうだ。特にフォアハンドはヘッドが走ってよかったそうだ。でもサーブは弱点だったらしい。
松岡修造氏に才能を見出され、さらに盛田ファンドのサポートを受けてニックボラテリーアカデミーに行くことになるわけである。
同時期に盛田氏がテニス選手の発掘のために動き始めておられたことは運がよかったが、
選ばれたことは全国小学生大会の優勝という自分の力で決定的なものにしたのは間違いない。
経済的援助(年に数百万から1千万とか)も無視できないわな。
よっぽどの金持ちじゃなければ無理な金額だ。
アメリカに行くにも同じ世代の日本のジュニア2人といったこともよかったと書いてある。
英語のできないアメリカでは一人ではやっていけなかっただろうと。
地元の柏井コーチから、アメリカでのスタートには米沢徹コーチ、そしてゲーブハラミロとレベルアップしていくなかでスムーズにコーチが変わっていったこともよかったと。
アメリカでの練習相手にモニカ・セレスとかマリア・シャラポアが出てくる。すごいね。
その後もグスタボ・クエルティンとダブルスにでたとか、ナダルとかフェデラーのヒッテイングパートナーをしたとか、実力を認められていたんだ。
スクールのコーチに短期留学していた際、錦織圭と一緒に練習したという方がいる。(2~3歳年上だと思う)
その方の話しでは「負けず嫌いで、練習マッチでも負けるとすぐに泣く。やっかいだから負けてやった」とか。
ハードコートで跳ね上がるし、常に高い打点で打たざるをえないからジャンプして打っていたとか。
エアーKの始まりだったんだ。
アウトしてよいからネットだけは超えろというのが指針だそうだ。
相手に悪いから何とか弱弱しくてもまずコートに入れることから始まった私のテニスではハードヒットが身につかない訳である。
原題の「15-0」の意味は”テニスキャリアの第一セット第一ゲムの第一ポイントをとったばかりである”と。
2008年発刊されてるのでデルレイビーチでのツアー初優勝後に書かれたものだ。
今ならゲームカウントはどこまで行っているのだろうか。
2009年、2010年前半の故障からのカムバック、ツアー3勝目の達成、TOP10が見えてきた状況なら、第一セットは取ったといえるか。
いやまだまだと意見もあるかもしれない。
グランドスラム大会のファイナルセット、
”ゲームセットアンドマッチbyニシコリ”
をどこで聞くことができるか。
著者はそう締めくくられている。
今日のナダルの試合は第一セットのセットポイントかもしれないな。
今から始まる4回戦、どこまで食らいつけるのか。
楽しみだ。
あのショットを見たら、ドロップショットなんか予測できない。
でもそのドロップショットを拾いにいく際、右手一本でグリップチェンジしてラケット面を上にしていた錦織選手もうまい。
さて雨なら麻雀ではなく、晴れていたが本を読んだ。
スクールの待ち時間があったので近くの図書館で1時間強ほど。
図書館て静かだ。(当たり前か)
読んだのはスポーツジャーナリスト 神(コウ)仁司 著「15-0(フィフティーン・ラブ)」
錦織圭選手の2008年までの歩みを紹介している本である。
”コウ”とは珍しい読み方だね。近くに神と言う地名があるが”カムラ”と呼ぶ。
本のなかでも錦織をニシコリと読むようにしたのは祖父だと書いてある。
確か大津京遺跡の辺はニシコオリと呼ぶはずだが、錦織部という職業の人が各地に散らばっていったのはわかるが、祖父の代って大正か昭和初期のはずなのに、そこで戸籍の読み方を決められたというわけ?
話がそれた。
書評はうまく書けないが彼の成長は人との出会いがよかったと書いてある。
父君はテニス経験があり、姉と一緒にテニスラケット与えテニスを5歳で始めることとなる。
最初は好きで行くこともなかったようだが姉の存在が大きかったと。
姉が続けているので何とか姉に勝とうとしてはまってしまったようだ。
負けず嫌いだったようだ。
今でもそうなんだろうが読みがうまくて配球、展開力というのだろうか勝ち方を知っていたそうだ。特にフォアハンドはヘッドが走ってよかったそうだ。でもサーブは弱点だったらしい。
松岡修造氏に才能を見出され、さらに盛田ファンドのサポートを受けてニックボラテリーアカデミーに行くことになるわけである。
同時期に盛田氏がテニス選手の発掘のために動き始めておられたことは運がよかったが、
選ばれたことは全国小学生大会の優勝という自分の力で決定的なものにしたのは間違いない。
経済的援助(年に数百万から1千万とか)も無視できないわな。
よっぽどの金持ちじゃなければ無理な金額だ。
アメリカに行くにも同じ世代の日本のジュニア2人といったこともよかったと書いてある。
英語のできないアメリカでは一人ではやっていけなかっただろうと。
地元の柏井コーチから、アメリカでのスタートには米沢徹コーチ、そしてゲーブハラミロとレベルアップしていくなかでスムーズにコーチが変わっていったこともよかったと。
アメリカでの練習相手にモニカ・セレスとかマリア・シャラポアが出てくる。すごいね。
その後もグスタボ・クエルティンとダブルスにでたとか、ナダルとかフェデラーのヒッテイングパートナーをしたとか、実力を認められていたんだ。
スクールのコーチに短期留学していた際、錦織圭と一緒に練習したという方がいる。(2~3歳年上だと思う)
その方の話しでは「負けず嫌いで、練習マッチでも負けるとすぐに泣く。やっかいだから負けてやった」とか。
ハードコートで跳ね上がるし、常に高い打点で打たざるをえないからジャンプして打っていたとか。
エアーKの始まりだったんだ。
アウトしてよいからネットだけは超えろというのが指針だそうだ。
相手に悪いから何とか弱弱しくてもまずコートに入れることから始まった私のテニスではハードヒットが身につかない訳である。
原題の「15-0」の意味は”テニスキャリアの第一セット第一ゲムの第一ポイントをとったばかりである”と。
2008年発刊されてるのでデルレイビーチでのツアー初優勝後に書かれたものだ。
今ならゲームカウントはどこまで行っているのだろうか。
2009年、2010年前半の故障からのカムバック、ツアー3勝目の達成、TOP10が見えてきた状況なら、第一セットは取ったといえるか。
いやまだまだと意見もあるかもしれない。
グランドスラム大会のファイナルセット、
”ゲームセットアンドマッチbyニシコリ”
をどこで聞くことができるか。
著者はそう締めくくられている。
今日のナダルの試合は第一セットのセットポイントかもしれないな。
今から始まる4回戦、どこまで食らいつけるのか。
楽しみだ。
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